180度
どうもこんにちは、たけうちです。
「目標」と「努力」は、どちらが主でどちらが従でしょうか。また、「私」と「人生」では、どちらが主でどちらが従でしょうか。主と従という分け方はおかしいかも知れません。別の言い方を探すと、どちらが目的でどちらが手段か、または、どちらがどちらのためにあるのか?という問いです。
購読しているあるメールマガジンで先週、陸上競技でアテネ・北京のオリンピックに出場した為末大さんのコラムを読みました。一部を抜粋すると、こういった内容です。
「・・・僕は長い競技人生で、段々と目標を達成する為に努力があるのではなく、努力する為に目標を設定するのだと思うようになった。目的は目標の達成ではなく、今この瞬間を精一杯生きる事。・・・人生は長いのかどうか、いつ終わるのかわからない中で、それでも自分にできる事は精一杯今を生きる事しかない。僕にとって成功とは、何かを達成しようと必死で生きる今であり、自分を思いっきり燃やしている今だった。」
これまでの自分の固定観念と全く違いました。
まずは目標があり、そのために努力をする。あくまで目標が重要なのであって、努力という過程は目標達成のための手段に過ぎない。と、なんら疑うこと無く、これまで思い込んでいました。ところが為末さんは、努力をするための目標という、全く逆の考えを持っています。
こういう、180度がらっと見方を変えられたことを、もう一つ思い出しました。
第二次世界大戦中にナチスドイツによって強制収容所に送られ、死ぬほうがマシという過酷な状況下を生き抜いたフランクルの著した「それでも人生にイエスと言う」を読んだときです。
「『私は人生にまだなにを期待できるか』と問うことはありません。いまではもう、『人生は私になにを期待しているか』と問うだけです。人生のどのような仕事が私を待っているかと問うだけなのです。・・・私たちが『生きる意味があるか』と問うのは、はじめから間違っているのです。・・・人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。」
これもどうでしょう。
あくまで主は私・自分であって、人生は、私が想像したり意味付けしたりする単なる対象に過ぎないと、これまで思い込んでいました。しかしフランクルの見方ではそれは逆で、人生そのものがまるで意志を持っていて、私たちを試しているようなことを言っています。真っ暗やみの苛烈な収容所を生き抜いてきたフランクルの言葉だけに、重く胸に迫るものがあります。
私自身の固定観念を180度変えるパンチを食らわした、この二人の考え方。時代・場所の全く異なる為末さんとフランクルですが、たった今を生き抜いている人の持つ感覚や価値観には、相通ずるものがありそうです。
こんにちは。
「人生観」ですかねぇ~(?_?)
物事の捉え方によって考え方が全く違ってくるみたいですね。。。(・・?
>まずは目標があり、そのために努力をする。あくまで目標が重要なのであって、努力という過程は目標達成のための手段に過ぎない。
確かにそうですよね♪例えば、受験も目標の学校に入る為に、塾や家庭教師などを使い勉強をしますよね♪
でも、もう少し深く考えると、学校に入るだけが目標なのか、その学校でやりたい目標があるから入るのかでは、たぶんその人の人生観は全く違うものになりますよね(?_?)
そう考えると、やはり主体は自分で学校は目標の為の手段になるような気がします♪
まぁ~、ともあれ私的には、「自然体の人生が一番いいような気がします(?(笑)?)」
http://www.youtube.com/watch?v=mHiyWkGujjM
コメント by 9時から男 2012年11月24日 9:46 PM
9時から男さん、いつもありがとうございます。
し、島倉千代子ときましたか。確かにこの曲は有名ですが。
「人生いろいろ」というと、小泉元首相の発言も思い出しますね。。。
コメント by たけうち 2012年12月3日 5:59 PM